Abi in malam rem -1-
「君をこんな風にぼくの手に抱けるとは思っていなかったよ、大介」
ひやりとした指が顔に触れ、首筋へと下りてゆく。そのたびに肌が粟立った。
顔を背けようとしても、躰をよじらせようとしても、それは敵わなかった。身じろぎをするたびに、手首を戒める手錠が耳障りな音を立てる。
鎖骨に這わせていた手を止め、男は笑みをうかべた。
まさにサタンの如き、邪悪な微笑を。
「さあ、パーティーはこれからだ── 」
* * *
伊集院大介がバーを訪れたのは、深夜0時を回ったところだった。
「あら探偵さん、いらっしゃい。ご無沙汰だったわね」
「ええ、ちょっと立て込んでいまして」
「何にする」
「では、烏龍茶を」
ママは大介の前に烏龍茶のコップを置くと、カウンターから身を乗り出した。
「ね、立て込んでいるって、やっぱりあの事件、なんでしょ」
事件──巷を騒がせている、モデルの連続惨殺事件。それは大介が今まで関わった中でも酸鼻を極めるものであった。そして収束の兆しを見せることなく、連日そこかしこで首を裂かれ、腸を引きずり出された女達の死体が転がり続けていた──
ね、どうなの?と催促顔のママの目に見つめられ、大介はあいまいに頷いた。
「まあ、なかなか、大変なのです」
「犯人の目星がつかないから?」
伊集院大介は、そこでにこりと微笑む。なにも言わない。
──目星がついていないわけではない。むしろ、裏で操っている人間が誰であるかはすでに確信している。
しかし問題はそのあとなのだ。「彼」をいかにして捕らえ、「彼」の凶行をいかにして止めさせようかと、大介は思案しているのだった。
カランカラン
バーの入り口に掛けてあるベルが鳴った。
入ってきたのは、20代後半ぐらいの女性だった──黒のパンツルックの180センチを越すほどの長身で、高いヒールの靴をはいているようだった。髪は栗色でみじかく、まわりを見渡す目は猫のようで、紅のルージュの口唇は艶然とした笑みをうかべていた。
彼女は硬質な足音をひびかせながら店内に入ってくると、伊集院大介に目をとめた。
「あら、貴方はテレビでみかける顔ね・・・たしか、伊集院さんと言ったかしら?」
「はい、伊集院大介です」
「お隣、よろしいかしら」
小首をかしげて微笑むと、女性は言った。大介がうなずくと、椅子に腰かけ、上品に足を組んだ。
「失礼ですが、お名前はなんとおっしゃるのですか?あ、初対面の方にいきなり訊くっていうのも、無躾ですよね」
牧村レオナなど、たくさんの美人を見慣れているはずの伊集院でさえも、ほんの少しであるがうろたえさせ、あがらせるほどの雰囲気を、この美人は携えていた。
「司狼、天音──です」
「あまねさんですか、美しい名前ですね」
そういわれた天音はにこりと微笑み、グラスを傾けるとワインを口に含んだ。
「伊集院さんって、最近起こっているモデル連続殺人事件も、調べていらっしゃるのかしら?」
「ええまぁ、そうです」
「私も、実はモデルなのです──まだ駆け出しですけれど。それで、最近は不安で眠れなくって──私のモデル仲間にも、事件のせいで不眠になったり、ノイローゼみたいになっている人が何人もいるわ。それだから、こんな遅い時刻にバーなんかに来たんです」
大介の烏龍茶のグラスが空になっているのを見ると、天音はカウンターにワインをオーダーし、大介にさしだす。
「はい、これ私のおごり。私だけが飲んでいるなんて、さびしいでしょう」
天音の話を聞きながら、2人はグラスを傾けていた。
「では、そろそろお開きにしましょうか」
するととつぜん天音は、大介の膝に手をおいた。
「ね、伊集院さん、私こわいの。だから、途中まででいいですから、いっしょに帰っていただけませんか」
「あら伊集院さん、いいじゃない。送ってあげなさい。でも、送り狼にはなっちゃダメよ」
そうやってママも煽るものだから、大介もつい首を縦に振ってしまった。
天音は手を上げ、黒いタクシーを止めると、前の座席に乗り込む。大介も後ろの席におさまった。
車は、深夜の首都高を走りつづける。車内はうすぐらく、みな口をきかなかった。
ときたま天音の秀麗な顔に対向車のライトがあたり、その顔を照らしかがやいていた。
沈黙をやぶり、伊集院大介がしずかな声で話しだす。
「ぼくははじめから気づいていたのです。その上で、あなたの誘いにのった」
「司狼 天音──天狼星──-、あなたが──シリウスですね」
「そんな事をここで言うのは野暮ですよ、伊集院さん。せっかくの酔いが冷めてしまいます。これから、もっと楽しいことをやるのですから──」
「私はあなたを司法の手に付きださなければいけな・・・・・・」
急なめまいが伊集院大介を襲う。なおも話をつづけようとするが、頭がふらついてままならない。
「さっきの・・・・・・ワインに・・・・・・?」
意識を失う寸前、大介は天音の口唇をつり上げたような微笑みと、ひくい氷のような声を聞いたような気がした──。
「夜はまだまだ長いのだよ、大介──」
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