「こころ」考察
 

 

 


<明治の精神>

 先生とKは明治という時代に生き、そして死んだ。また、「私」の父も明治時代の考え方を色濃く残していた人であった。彼らが「私」に示し、残そうとした「明治の精神」とは何なのであろうか・・・・・・

■Kの生き方
 Kは寺の息子ということもあり、「精進」ということを目標にしていた。道のために自分のすべてを犠牲にして、禁欲的であろうとしていた。また明治の倫理により、自分の思いを表に表すのを良しとしなかった。そして学問や思想を重んじ、よく議論をした。
■先生の生き方
 倫理にしたがって育てられたので、なかなか自分の思いを表したり、恋愛について話したりする事が出来なかった。
■明治時代の恋愛に対する倫理観
 自分の本音や欲望を表に出さず、厳しく自分の心を律しなければいけないというもの。儒教によるものであり、人間は「聖人君子でなければいけない」とされていた。
恋愛について立ちいった話をする人はなく、黙っていることが普通だった。
■2人が自殺した理由
「精進」という言葉にそって生活しようとしていたKだったが、お嬢さんとの出会いによってそれが変わってしまった。学問については独立し自由にやっていた。しかし、心の底には明治の倫理がずっとあったために恋愛について人に話す事は出来なかった。お嬢さんにうつつを抜かすことは、「道を外した、自分の精神に対する裏切り行為」だと感じてずっと悩んでいただろう。そんな中で先生の裏切りがあり、その事がきっかけで自死することになってしまった。
 Kの死から二十年近く、先生は責を負っていた。明治の倫理が邪魔をしてKに自分もお嬢さんが好きであると打ち明けられず、一人で思い悩んで、結局Kを出し抜いてしまった。先生は正直という道を踏み外してしまった。それがきっかけとなったKの自殺があり、その責任の念を抱え、死のう死のうと思いながらずっと生きてきた。
 そして明治天皇が崩御し、乃木大将の殉死が起こる。その時代の倫理のせいで自分の思いを表せず、結果人ひとりをが死ぬに至った明治という時代は終わったのだ。ここで先生は、既に終わった時代の思想を抱えた人間が生きているのは時代遅れだと感じた。そして先生は、良い意味でも悪い意味でも自分たちを形作り、育て、生死をも左右した明治の考えを抱えたまま、死んでいったのであろう。

<三世代の思想の違い>

 「こころ」に出る人物は、「私」の父の世代、K・先生の世代、「私」の世代と三世代に分けることが出来る。
*「私」の父の世代・・・国家に仕えることを当然の事としている。封建的。病床にあっても亡くなった明治天皇の死と乃木大将の殉死に強い反応を示し、家督制度にこだわっている程である。
*Kと先生の世代・・・「自由と独立と己れ」を大切にするという新しい考えがあるのだが、心の底では古い倫理観や道徳に縛られているというジレンマを持っている。また、まだ「明治日本」への一体感を持っている世代である。
*「私」の世代・・・明治の倫理を「一時代前の因習」と考える。倫理や道徳に縛られていないので、自由に自分の考えを示すことが出来る。国家への一体感は持っていない。
 このように世代が違っていると、「私」には天皇を中心とする様な父の考えは理解出来ないし、先生やKが昔とった行動の理由もよく解らなくなってしまっているだろう。しかし、倫理に縛られていなくて、本音で接してくれる「私」になら、過去をさらけ出してもそれを受け入れてくれるかもしれないと先生は期待したのだろう。その為、遺書は残されたのだ。

<「こころ」に見られる女性差別>

 「こころ」を読んでいる途中、先生やKの言動に奥さんやお嬢さん(後の先生の妻)への女性差別があるようなのが引っ掛かった。
だが二人が持つ差別的な考えとその理由と同じではない。
 Kは女性を男性と同じ立場で考え、同じ位の知識や深い思想を要求した。しかしこの時代は女性教育がまだ発達していないため、男性と同じ知識などを得るのはとても難しかったであろう。Kはそれを考えず、知識が少なく思想が浅いことだけを見て女性を軽蔑していた。
 先生は、女性というものは自分の意見をあまり言わないもので、そして女の価値というのは学問にあるのではなく、裁縫や琴や生け花などの手仕事やお作法にあるという「性別役割分担」の考えを持っていた。
 Kの場合はこの時代の制度が原因であり、先生の場合は昔からずっとある、「女性は家を守り男に従うもの」という思想が元である。ここにも「明治時代の精神」が見えるだろう。
 そして見落としてはならないのは、女性であるお嬢さん自身も、「私は女だから〜」と言ったりと、その思想を受け入れているところである。

<「こころ」の同性愛的側面>

 「私」は先生を尊敬し、そして先生は「私」を信用していた。しかし「私」と先生の関係は、ただ単に尊敬と信用だけで成り立っていたのであろうか。そして、先生とKの間に有ったのは、友情だけであったのだろうか。それだけではないだろう。その奥にはもっと深い想いが隠されているように思える。それは同性愛的な感情である。これは「私」と先生の間にも、そして数十年前の先生とKの間にも言える事である。
序盤での、「私」と先生の出会いのシーンに、外国人が登場する。海水浴の場面だが、「私」の視点は彼の躰を見つめている。その目は執拗であるように見える。このシーンは、先生と出会う場面の情景にすぎない。にもかかわらず、ここまで詳しく描きだしたのは、「私」が同性愛者であることを匂わせる伏線ではないか。
 「私」は、女性にあまり興味がないと解る言動をする。彼の口から女性の話は出てこないし、周りに女性はいないようである。少なくとも話の中には女性は影ほども出てこない。(いるのは先生の妻ぐらいだ)この頃「私」は大学生であり、(高校生ほどでないにしろ)異性に対し興味の高い年頃であるにも拘わらず、だ。異性に興味がないからと言ってそれをすぐに同性愛と決めつけるのは早計であると思うが、ここまで異性を排除したところには漱石の意図を感じる。
 ではKはどうだろうか。彼は寺に生まれたが、御嬢さんに対して真摯な恋をする。そして先生に裏切られ、それが元となり自殺する。これから考えて、Kの御嬢さんに対する思いは本物であり、彼は異性愛者であったと言えるだろう。
 しかし、先生は違う。御嬢さんに近づこうとし、Kを出し抜いてまで彼女と結婚しようとした。だがその影には、Kの存在が有った。Kが彼女と親しくしているから、自分も御嬢さんにより近づこうとする。Kが御嬢さんに告白しようかと悩んでいるから、先を越して自分が告白した。どの行動もKを意識している。それには、Kが御嬢さんとくっつくのを阻害しようとする意思がはっきり見て取れる。それはKを女性である御嬢さんの物とさせないためだ。結果Kは自殺し、永久に彼のものとなったと言えるのではないか。
 そして数十年後、先生は「私」と出会い、そして長い一通の手紙を残して命を絶つ。先生は手紙に自分の過去を克明に描写した。それは彼が「私」を信頼していたからに他ならない。そして、先生が私を信頼したのは、互いの思考にシンパシーを感じていたからではないだろうか。




 こんなに固っ苦しい(の割に内容の薄い)考察をお読み下さり、お疲れさまでした。
 これの前半は学校の授業で書いたもの、後半はその授業の頃から感じていたことを加筆したものです。私の目には、汚れたレンズが掛っており、文章はその目を通して読んでいるので悪しからず。夏目漱石について真面目に調べようとして、うっかりこのページを見てしまった人は、怒らないようにお願いします。また、「こころ」を読んで同じような事を考えていた方は、御一報下さいませ。















 
 




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