形而上の交歓
 

 

 

 私が先生の家を訪れたのは、ある寒い冬の日だった。吹きすさぶ風に身を縮めながら、呼び鈴を鳴らす。
 はい、開いていますよ、と微かに奥の方から声が聞こえた。

「おじゃまします」
 戸を開けた私を出迎えたのは、小紋をまとった先生の奥様だった。年を重ねてはいるが、若いころはさぞ人目を引いた女性だっただろう。
「いらっしゃいませ。まぁこんな寒い中をわざわざ」
 私は微笑して言う。
「いいえ、寒さなどは気にしない性質なのです」

 ・・・・・・そして、ここへ来れば「先生」が居るのだから。

 襖を開けると、先生はいつものように火鉢にあたりながら、本の頁を繰っていた。つと顔をあげ、私の姿を認めると、
「ああ君か。この寒いのにせいが出ますね」
と言った。
「先生、何を読んでいるのですか」
「・・・先生と呼ばないようにと言ったでしょう。私が貴方に教えられることは何もないし、またそれに足る人間でもないのですから」
 この時私は学生であり、先生は私と二十歳ほど違ったであろうか。別に教師をしていたと云う事もないのだけれど、私は先生に会ったころからずっと「先生」と云う呼び名を使っていた。しかし先生はその呼び方があまり好きではないらしく、たまに不満そうな顔をする。
 そう言われても私は今さら「小父さん」とか「××さん」だとか云うのも何だかおかしい気がして、ついついいつも「先生」と呼んでしまうのだった。

 私はいつものように先生の部屋の書架を見渡し、適当そうな本を手に取る。そして私達は向かい合うでもなく、暫し黙々と文字に目を落としていた。
 暫くしてから、襖の向こうから
「お買い物に行って参ります」
という奥様の声がした。先生は目を上げることもなく、ああ、と答えた。奥様のぱたぱたという足音と、戸を閉める音がしたあと、家の中は空気さえ動かなくみえるほど静まり返っていた。

「君は愛というものを信じますか」
 そういきなり先生に訊ねられ、私は我に返った。私が答えあぐねていると、先生は本を目で追いながら、ぽつぽつと話をし始めた。
「ときどき判らなくなるのです。いいや、もしかしたらずっと前から、一度だって判ったことがなかったのかもしれない。一体自分がいることで、自分を取り巻いている世界に何かしら影響を及ぼしているのでしょうか」
「少なくとも、私には影響があります。こうやって足繁く先生のうちに通っていることが、その証拠です」
 私の返答はあまり上手でなかったかもしれないが、それは私の本心だった。
 そしてそう答えた傍らで、先生が急に話を始めたことの意図を考え始めた。

「かつて私は妻に恋をし、そして妻にめとりました。私は妻を愛していると思っていましたが、その気持ちは本当に自分の中から発露したものなのかと心細くなるのです。
 私の妻への恋は、肉の欲求や世俗的な利益などの全く絡むことのない、全く純粋なものだと考えていました。しかし果たしてそんな感情を人が持ちえると思いますか。彼女と話をしたい、すべらかな手に触れてみたい、そう思っただけでその純粋さには影が差すのです。純粋であろうとすれば、彼女と離れていかざるを得ないのです。
 君は、どんな気持ちで女性を見ていますか。やはり欲望の対象物としてなのでしょうか」
 私は暫し黙し、首を振った。
 先生の顔を見上げ、息を一つすると、一気に言う。
「私は女性を欲の対象として見たことはありません」
「では、」
「女という性は、私にとってただただ異質なだけのものです。受け入れられないものなのです」

 私の躰は強張っていた。これまで誰にも打ち明けたことのないことだった。
 先生はどう感じるだろうか、嫌悪を抱くだろうか、そう考えるだけで私はなんだか悲しかった。

「ああ、やはり君も・・・・・・」
 そう言うと、先生は口を閉ざしてしまった。
 重苦しい空気が流れたあと、閉ざしていた口から出てきたのは、私が驚かないではいられない言葉だった。

「私が妻に何故純な気持ちを持ったままでいられたのか、考えたことがありました。その訳には、思い当たるふしはただ一つしかなかったのです。
 私には昔、友がいました。そしてよく共に行動し、議論をしました。彼は論を戦わせずにはいられない性分でした。いつも彼の理論ははっきりとしていて、そして正しく感じられました。
 でもある時、そんな彼が口籠もって、なかなか話そうとしなかったのです。それは女性に関することでした。彼は恋をしていたのです。
 それが判ったとき、私はその女性に嫉妬しました。そしてどうにも汚らわしくも感じました。どうにかしてその女性を遠ざけたほうが、彼の人生にとって有益だと思いました。
 しかしそれは理不尽な考えです。実際私は本当は彼の気持ちや人生など考えていたわけではなかったのです。私はただ彼とともにいたかった。余計なものは排除し、彼を自分だけのものとしたかったのです。
 結果その考えは成功し、彼とその女性が一緒になることはなかったのですが、その過程において私は重大な過ちと罪を犯しました。もうかなりの年月が経ちましたが、いまだにそれが消えることはないのです。
 そして今は、君に対して彼と同じような感情を持ってしまうようになったのです。
 私が君に会うことにより、私は何か有益なことを残してゆければいいと思っていました。そうすれば自分に少しでも価値があると思えるのではないかと考えたからです。
 だけどそれは間違いだったようです。ただ君に同じ轍を踏ませる結果になっただけだったのですね」
「間違いなんかじゃありません、だって私は先生のことを、」
「皆まで言わないで下さい」
 先生は悲しげに首を振った。

 私の周りには先生のようにこんなに理知的で、憂いを負ったような大人はいなかった。そしてその淋しさに自分と同じものを感じた。だから私は先生を思うようになった。
 そんな過程はどうでもいい。

「先生、手を出して下さい」

 訝しげに出された先生の掌に、自分の掌を合わせた。
 ゆっくりと温もりが伝わってくる。
「先生、今私と手を合わせてどう感じますか。嫌ですか、男同士で掌を合わせているなんて、気持ちが悪くて汚れているだとか、感じますか」
「いいえ。たかだか掌だけしか触れ合っていないのに、何打か君の全てと触れ合っているような心持ちがしているのです」

 私達には肉体の交わりなど必要はない。
 互いの性別など、全く関係がないと思わせる温かな感触、そして小さな幸福感。
 これでも先生は、このことが間違いだとか、言うのでしょうか?

「相手を倖せな気持ちにできるのなら、それが愛です」

 先生は静かにうなずくと、ひとすじ、涙をこぼした。

 夏。
 それから数ヶ月がすぎ、先生は一編の長い手紙を私に残して去っていった。

 私はこれからどんどん大人へとなっていく。
 それでも、あの冬の日に交わした掌と、暑い夏の日に私へと託された手紙の重さを、忘れることはないだろう。
 

<了>



 

 初めて一人で書いたパロです。
 先生のセリフが書きたかったので、ストーリーはあまり考えませんでした。(おい)
 「何だか暗い」とか、「セリフが長い」とか考えつつも、先生への「愛」により書き上げました。
 先生のストイックなキャラクターが好きです。
















 
 




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