炯然たる一星の火、夜の闇に透かせ
 
 

 

 

 
 
 絢爛な空間をシャンデリアの光が照らし出す。その光線の下には、不自然なほどに大きなダブルベット──しかし枕は1つだったが──、そしてそこに腰掛ける男。彼の傍に置かれたサイドテーブルには、ブランデーのグラスが1つ。
 ──1人きりである私には、この部屋は広すぎた。
 喪服の襟をくつろげ、フランツは息を漏らした。
 ──空間が多すぎるのだ。だからその間を埋める為なのか──、
 幻影が視える様になっていた。
 其れは私の周りに付き纏い、だが決して全てを現す事はなく、引き攣らせるような酷薄な笑みのみが場に残っていた。幻はゾフィーの手をうやうやしく取り、息子のルドルフの髪をかき上げ額に優しく口付け、そして──最愛の妻であるエリザベートの腰をかき抱き。
 ──こちらを見て、嗤った。
 
 幻に触れられた者たちは、皆程なくしてこの世を去った。
 そして私は気付くこととなる。かの者の正体を。
 
 そう──あれは、「死 -Tod-」であるのだと。

 妻の存在が完全に消えた空間で、フランツは思う。
 彼の送った此れ迄の人生を占めてきたのは、母親による支配。最高権力者であるが故の重圧。そして追従しているかのように見え、腹の底では皇帝を意のままに操ろうとし、狡猾に地位と権力を狙う配下の者。抑圧と束縛。嘘。
 そんな日の中で、彼女だけが光であったのに。
 唯ひとつだけ、己の力で手に入れられたと思ったもの、しかしその実、一時たりと手の内に留められたことは無く、そして永遠に手の届かなくなったひと。
 (エリザベート・・・・・・!)
 息子が生まれてからは、閨を共にする事は無くなった。其れ所か会うことすら、殆ど叶わなかった。
 (私は、もう、ずっと独りだった)
 だから例え彼女が死んでも、何も変わりはないのだと。そう、考えようとした。だが・・・・・・。
 (無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ──!)
 フランツの口から、呻きにも似た嗚咽が漏れる。どれ程泣いても枯渇しない哀しみが吹き出し、躰を支配していた。
 その時、フランツはベッドが微かに軋むのを覚えた。振り返り、泣き腫した目が捉えたのは、漆黒の男だった。
 朝露に濡れる蜘蛛の糸の如き銀糸の髪。石膏の肌。紫水晶の光彩。
 髪と同じ銀糸で複雑な文様の縫い取られた服と黒天鵞絨のマントに包まれた体躯を、ベッドに気怠げに横たえている。
 そして黒い影に縁取られた眼が、凝乎とフランツを見据えていた。
「──貴方は」
 深緋色の口唇が、嗤いの形に歪む。
「お前からエリザベートを奪った、“死”だ」
「──貴方が、トート」
トートはフランツの顎を持ち上げると、言った。
「見苦しい顔をしているな、オーストリア皇帝樣。お前なんぞの物になるにはエリザベートは勿体無い。
 ──ああ、お前の妻だったエリザベートは、美味かったぞ」
 硬直した瞳が、トートを虚ろに見つめる。
「──エリザベートを、貴方は」
「そうだ、積年の思いを込めて抱いてやった。彼女も──悦んでいた」
 脳髄に響く声音は心地良い低音の余韻を残し、しかしその言葉は鉤爪で引き裂かれるような損傷を与えた。今となってはもう無意味な焦燥と絶望が、躰のなかに充ち満ちてくる。
  お前は手に入れたもの、欲しいと願ったものを全て失った。
  だが俺は違う。
  お前が失った物は、全て俺の手中に有るのだ。
  悔しいか?俺を殺して全てを取り戻したいと思うか・・・・・・?
 フランツからのいらえは無い。ただ其の右手が、トートの服の裾を縋るように掴んだ。其の事に気付くと、嘲りを込めてトートは言った。
  お前はそうしていると、あの息子に良く似ている。
  お前は本当は何者かに縋って生きていきたかったのだろう。
  だがお前が縋ろうとした者たちは、すげなく其れをかわした。
  いや、それどころか求める手を叩き振り払いさえした。
  さあ、今度は誰の服の裾を握りしめる?
 俯向いていたフランツの顔が、ゆっくりと上がる。
「お前を愛する者などいない。エリザベートはもう何十年も前から俺のものだった。お前は、独りなのだ──!」
 昏い色であったフランツの瞳が、急に違った──異様とも云える光を帯びた──色合いへと変わった。自虐の感情にせき止められていた言葉が、一気に溢れる様に紡ぎ出されていく。
  私のことを何やかやと 謗るが、貴方だって似たようなものだ。
  本当は、不安だったのだろう?
  これまで誰の目にも見えず、誰にも愛されず、それどころか「愛」などと云う感情を覚えた事もなく。
  だからその不安を隠さんがために、貴方はエリザベートが自分のものであると高らかに宣言せざるを得なかった。偽飾の吠え声だ。
  貴方は──エリザベートを心の底から愛してなどいなかったのだろう・・・・・・?
「違う!」
貴方は、寂しかったのだろう?
「違う!」
不安だった、だけなのだろう・・・・・・?
「黙れ!」
 引き攣った顔で、彼の首根を掴んだトートに、フランツは弱々しく笑いかける。
「私を殺したいのなら、そうすれば良い。死ねば、妻の元へ行ける」
 私は待っていたのかも知れない・・・・・・彼が手を差し出してくれるのを。
 舌打ちをし、トートは手を振り払った。咳込み、赤く爪痕の付いた首を押さえるフランツに、言い放った。
「貴様なぞ死んでもエリザベートの傍になど行かせてやるものか。貴様など、冥界の隅で震えているのが似合いだ!」
 トートはそうフランツの耳元で吐き捨てると、マントを翻し、姿を消した。
 その黒布へと伸ばされ、空を掴んだフランツの手に残ったものは・・・・・・
 
 まるで天鵞絨で出来た様な、1羽の黒蝶の、骸。

 

<終劇> 

 
 


 
 この小説は、樹さんに捧げます。
 題名は、森鴎外の「舞姫」から取りました。
 斜体になっているところがトートの台詞なんですが、今一解り難くなってしまったかなと反省。
 











 
 




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